「ザンバイ!ザンバイ!」コミュニケーションへの姿勢を考える

「ザンバイ!ザンバイ!」

 

四歳の娘が声をあげて飛び跳ねていた

 

 

どうやらバンザイ のことらしい

 

言葉は間違ってるが、意味は体現しているので十分伝わる

 

 

私は日本語以外ほぼしゃべれませんが、学生時代片言の英語とボディランゲージで海外のお客様を相手にコミュニケーションをとっていたことをふと思い出した

 

 

微妙なニュアンスはなかなか難しいと感じたものの、主要な意図に関してはなんとなく伝わったなと。

もちろんそれを拾うのだ、という意識が相手にもあったからこそだとは思います

 

 

社内のコミュニケーションも言葉尻一つでこじれた解釈をしてくる人はいます

 

自分の信念に基づいた独自の解釈。

それが100%誤っていないという確信とともに

 

 

英語力に自信がない私は、学生時代、常に自分が誤っている可能性を念頭にしていたように思います。

 

アラフォーになり、社会経験の仕事経験も人生経験もそれなりに場数を踏み、果たしてそのような初心は持てているのか

 

娘のふるまいは、親として(おそらくそれなりには)真摯に向き合っているから、

本人なりにわかりやすいボディランゲージを精一杯示しているから

解釈出来て、ほほえましい時間となったわけです。

 

 

言葉やふるまいの裏に何があるのか、完璧は難しくてもその先を見える感じ取ろうとする誠実さ

 

自分は持てているのか・・・

 

やはり、優先度重要度でランク付けして割けるリソースをセーブしてしまっている気はしました

 

漫然とやっているのか、信念の基なのか。

自分なりの言語化しとくとぶれないのかもしれません。

ピカチュウの色は?

ピカチュウの色はなんでしょうか

 

 

黄色、って答えたくなりますが果たしてそうなのでしょうか?

 

 

皆さんはなんて答えますか?

 

 

先日、4歳の下の娘が自作の歌を歌っていました。

 

ピカチュウピカチュウピカチュウのいろはなにいろ?」

 

ピカチュウピカチュウピカチュウのいろはピカチュウいろ!

 

 

思わず笑いましたが、

『自分の色は自分の色』ってことに気づきハッとさせられました

 

まじかー、この子天才か(親バカ)

 

自分も何かの色になるのではなく、自分色でありたいと思った日でした

 

 

 

 

娘の成長を感じた日。七歳

つい先日のこと

 

午後から展示会を見学し、5時過ぎに帰宅すると家の鍵が開いていた

 

娘が学校から帰ってランドセルを放おって遊びに出掛けたらしい

 

鍵をしなかったのだろう

 

特に荒らされた様子はなかったので大事には至ってないが叱らないといけないな

 

なんて思っていたら玄関でガチャガチャ

 

娘が帰って来たようだ。と思ったら後ろに友達を二人連れている

 

どうした?

 

家で遊ぼうと思って

 

?!?!いや、パパ仕事しないといけないからダメだよ

 

わかった。もう少し遊んでくる

 

 

 

娘の友達を家に招いたことはないはず。。。潔癖の気すらある妻が許すはずない

 

 

内緒で連れてこようとした?

 

あの真面目な娘が。。。すごいな

 

 

叱らないといけないと思いつつ、その図太さに感動すら覚える。成長したなと。

 

夜、なにかあったら困るということと、今後許可を取ることを言い聞かせたが、感心が勝りそうだったので妻に引き継いだ

 

いやー、私がその年の頃その発想はできなかった気がする

 

子どもはあっという間に大きく強くなるもんだね

 

 

やるかやらないか⇛やるかもっとやるか

やるか、やらないかでは無く

やるか、もっとやるか

 

何かに取り組むときにモチベーションがどうとか言ってるものは既にだめらしい。

 

やるか、やらないかの選択肢では毎回その決断が必要になる

 

やることを前提として選択肢に載せないことが肝要

 

そうは言っても難しい

やりたい事をやりたいならやればいい

と割り切って受容するのがいいんだろうね

 

勉強したければして、そうでなければ無理したって不幸になるだけだよね

 

なんの為にやるのか、幸せのためなわけですし

主人公の変遷から自分らしさへ・・・。

なんとはなしに、友人と「昔と今の主人公って変わってきたよな~」なんて話になりました。

私の世代だとスラムダンク桜木花道だったりするわけですが、最近の漫画は主人公っていうよりは周囲のキャラが魅力的で影薄いな~とか。

 

ジョジョの主人公の体系も筋肉マッチョから細身にかわったみたいな話は何となく覚えていましたが、ちょっとググると下記のように分析されている記事も出てきました。

 

moemee.jp

 

なるほど。

多様性の時代なんて言われてますが、時代とともに魅力的に見えるものも変わっていくのかもしれません。

大事なのは、周囲の期待ではなく、自らうちに湧き上がってくるもの、なのかもしれませんね。

わかりやすい正解はない。ってことでしょうか。

 

「自分らしさ」を求められるという意味では大変つらい時代ともいえそうです。

去りゆく取締役

今日、とある事業部門の取締役が退任となった。

業績の悪化もあるが、そもそも社長と折り合いが良くなかったようにみえる。

 

直接の上司ではないですが、諸々気に掛けてくれる親分肌の明らかな陽キャ

 

悪く言えばTHE昭和のノリだったかもしれませんが、その人懐っこさでファンは多かったはず。

 

 

従業員では無いので去る時はこんなものかもしれないがモヤモヤは感じました

 

得たものは引き継ぎ、次に活かしたい

自分の二十年後は果たして。。。

いつでも激動期、折角なら楽しみたい

先日、とあるイベントで楠木健の講演を聴きに行きました。

 

タイムマシン経営の下りで、メディアは毎年激動期、戦後最大の危機は数二十数回あったとか半分笑い話の笑えない話がありました。

 

そもそも世の中のせいにして儲かる、儲からないなんて言ってる経営者がいたとしたら無能を公言してるわけなので、外の環境がどうあろうが何とかする人はするわけです。

 

昭和初期なら良いのか、戦国時代ならいいのか、多分すべての意味でいい時期なんてない

 

あくまで経営向けの文脈でしたが、人生全般においても言える気がします

 

いい時も悪い時も良い事も悪い事も起こるのが人生なわけで、何もかも手持ちのカードでやり続けるしかないわけです

買った負けたよりは楽しめたか否かが大事な気がします

お金で泣く日も、人間関係で苦しめられる日もあるかもしれませんが、折角なら精いっぱい楽しみたい

 

生き抜く

 

改めて決心した残業終わりの帰り道

まずは家族に感謝ですね